2015.11/1 復活の主につながる人々

◆(ヨブ記19:25-27、ローマの信徒への手紙5:1-5)
 この確かさ(希望)は当て外れと言うことがありません。私たちが頂いている聖霊の働きによって、人を大切にする神の思いが、すでに私たちの心に注がれているからです。
 (本田哲郎訳:ローマの人々への手紙5章5節)
 11月第1日曜は「聖徒の日」。初代教会以来、弾圧の中で弟子や信徒たちの殉教が続き<聖ペトロの日>とか<聖アンデレの日>また<聖バレンタインの日>などとして殉教日を個々に記念しましたが、5世紀頃には、それらがまとめられ「万聖節」となったそうです。
 「聖」とは「神のために分けた」の意味で、「聖徒」は神に愛され神を愛して信仰に殉じた信者のことです。この日は永眠者記念日とも呼びますが、信仰者の死は永眠ではありません。やがて必ず勝利の復活をさせて頂けると信じているからです。
 さて使徒パウロは「私たちはイエス・キリストにより神に対して平和を得ている」と証言しました。この平和は本来の正しい関係、命のつながりのことです。
 誰でも相手に咎めることがあると、平気な顔をして一緒にいても内心は穏やかでいられません。ちょっとしたきっかけで相手にひどい言葉をぶつけてしまうことがあります。平和・安心のない状態です。どちらかが解決の糸口を切り出さねばなりませんが、たいがい「まず相手が謝ってくるべきだ」と思っていないでしょうか。
 人間と神との関係も似ています。この平和でない状態が「罪」です。聖書は人間は神の「似姿」として「命の息」を吹き入れられて「生きた」者として創造されたと教えます。神と交われる本質(例えば祈り心)を備えています。ところが、仕事や生活が順調なときには「神の助けはいらない」と思い、失敗や理不尽な出来事に「神も仏もあるものか」と、両極端な姿を自覚できません。その繰り返しも「罪」です。
 「このように、私たちは信仰によって義とされた」これは、神に敵対し神を悩まし続けたパウロ自身が、イエス・キリストに出会い、十字架の赦しに執りなされて神との平和、本当の絆、決して奪われない「希望」を知った喜びの叫びなのです。
 信仰のためにかえって苦労が増える場合もあります。けれども、信仰の先輩たちは苦しみや艱難さえも恵みと知る「価値転換」を経験しました。神から注がれる愛、聖霊が確信させる希望を仰いで「聖徒」として歩み続けた幸いな人々なのです。