◆(イザヤ50:4-11、使徒言行録10:34-43)
イエスは、ご自分が神によって定められた、生きている人と死んでいる人の裁き手であることを、イスラエルの民に宣べ伝え、はっきりと証しするようにと、私たちに命じました。(本田哲郎訳:使徒10:42)
「イエスはすべての人の主、支配者」と真心から信じる人は幸いです。生きている時も死んだ後も、イエスがこの私をご自分のものとして責任をもって扱って下さると確信していれば、悪魔の支配から解放され、どんな困難なことが起こっても主を信頼して耐え抜くことができ、聖霊が永遠の命を保障して下さるので、主のために心を込めて仕え、喜びながら一生を終えることが出来るからです。
ハイデルベルク信仰問答の第1問は「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一の慰めは何ですか」とあります。その要約が上の挙げた内容です。129の問答集は、五百年前、ルターによってはからずも引き起こされた「信仰の覚醒」のうねりが人々を聖書へ導いた一方で、信仰理解のぶつかり合いが起こりました。その中で徹底的に聖書に基づいて「カテキズム・教理」を提供しようとした努力の結晶がハイデルベルク信仰問答です。
カテキズムは「ひびく=ある人の耳に伝える」という意味があります。イエスがご自身の信仰と生き様から示された「神のことば」を、私たちの魂に響くように伝える人や方法が必要でした。
イエスはユダヤ人を中心に神のことばを伝えました。しかしユダヤ人以外にも自由な態度で対応されていたのです。ペトロは幻で示されなかったらユダヤ人以外とは「けがれた民」として交流しなかったでしょう。しかし幻で示されてコルネリウスのもとに出かけ、彼の真心を知ったとき「すべてのことが、今はっきりと分かりました」と「全世界へ出て行って」というイエスの意思として確信したのです。
本当の神さまを知らないこの世界で、神を信じて静かに礼拝するには、信仰者を守る砦が必要かも知れません。しかし、閉じこもっているだけの信仰者を神は望んでおられません。教会に退いて沈黙の祈りの中で神のみ声を聞き、家庭や地域に、あるいは悪魔に支配されているような外の世界に出て行って、神のことばと御業を証しする人を神は必要とされています。
内村鑑三は青年たちに熱い思いを語っています。「それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。」これは、1894年7月、内村33歳、第一高等中学校をいわゆる「不敬事件」で追われ、キリスト教界からも疎外されて、貧苦の内に妻を亡くした直後に「後世への最大遺物」と題して語られた講演の結論部分です。
私たちは招かれた幸いと、派遣される幸いの二つの恵み、それを活かす務めを頂いています。