2015.1/25  神の恵みによって育つ

出エジプト記2章
 2:1 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 2:2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。 2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
 2:4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、 2:5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。 2:6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。
 2:7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」 2:8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。 2:9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、
 2:10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

ルカによる福音書2章
 2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

「親子は、主の律法どおりにすべてをすませると、ガリラヤの自分たちの町ナザレにもどった。幼子はたくましく成長し、知恵にみち、神の好意がこの子に向けられていた。」
(本田哲郎訳 ルカ2:39-40)
 ユダヤの家庭に子どもが生まれると、その喜びは大きく、村中にうれしい出来事を知らせ、親戚はもちろん友人や隣人を招待してあらん限りのごちそうをするそうです。
 「子どもは神からたまわった嗣業(分け前)であり、胎の実は報いの賜物」と詩127篇が告げているとおり、天の恵み、神からの祝福のしるしです。
 とりわけ初産で男児が誕生すると「ベコル」と呼び「父の勢いまた命の力の初穂(創49:3)」として未来の家長と定められ、相続権と同時に一族の繁栄に責任を負うのです。
 イエスも8日目に割礼を受けてユダヤ人の「印」を付けられ、40日目に初子として神に献げられました。
 一方、現代は「子どもを作る作らない」「いるいらない」とか平気で言い、生殖医療の進歩で「デザイナーズ・ベイビー」すら望まれているのです。悩ましい時代です。
 イエスの父ヨセフは「正しい人(マタイ1:19)」と伝えられています。伝統的な価値観を持つ人だと思いますが、律法主義者ではなかったでしょう。
 「この親にしてこの子あり」と言いますが、生活の背骨として律法には厳しく、同時に「何が神の意思で、何が善であるかを見分ける知恵」つまり、柔軟さも幼い頃から示して育てたのでしょう。
 イエスは成長し、会堂(シナゴーグ)で律法を学び、両親からは信仰生活を学びました。それは暗記と実行でした。
 神の意思をあらわす律法を徹底的に暗記し、成長に応じて実行させられたのです。それを繰り返すことで、苦労し悩みながらも主の律法の深みを味わい、本当の父は神であると確信していったのです。
 それはちょうど主イエスが「わたしを主よ主よと呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか(ルカ6:46)」「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される(ルカ7:35)」と教えられているようにです。
 どのような人になるかは、生まれながらの気質や環境の影響が大きいと考えられますが、何より「愛されていること、その存在に関心と好意を持たれていること」が不可欠で「神から授かり、託された子」として大切にすることを神は期待されています。

 今朝から、数年ぶりで子どもの礼拝を始めます。どうぞ、主の恵みに包まれて子どもたちが成長していけるようにお祈り下さい。最も良いものをおささげください。