2014.11/30 神の思いが実るとき

新約聖書 マタイ福音書1章1-17節
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、1:4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、1:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。
  ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、1:7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、1:8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、1:9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、1:10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、1:11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
1:12 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、1:13 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、1:14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、1:15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

旧約聖書 ルツ記4章11-22節
4:11 門のところにいたすべての民と長老たちは言った。
「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。4:12 どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」
4:13 ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。
4:14 女たちはナオミに言った。
「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。4:15 その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」
4:16 ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。
4:17 近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。
4:18 ペレツの系図は次のとおりである。ペレツにはヘツロンが生まれた。4:19 ヘツロンにはラムが生まれ、ラムにはアミナダブが生まれた。4:20 アミナダブにはナフションが生まれ、ナフションにはサルマが生まれた。4:21 サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。4:22 オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。


 「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」で新約聖書は始まっています。
 「エッサイの木」というアドベントに読むお話の本が出ました。
 「昔は、聖書がある家ならたいてい、聖書を開いた一番はじめのページに、家族の歴史が記録されていたものです。だれとだれが結婚して・・」
 これを読んであることを思い出しました。18年前あるお葬式をさせて頂いた折に手にした故人愛用の聖書の裏扉に、故人にまつわるご家族の略歴が丁寧な字で簡潔に記されていたのです。その時は「几帳面な人だなー」と思っただけですが、とても重要だと、その本を読んで気付きました。いつかご家族に重要なメッセージとなることを意識して書かれた、と言うことにです。
 誰もこの世で「一人ぼっち」ではあり得ません。産んでくれた親、育ててくれた人がいる。そのまた親と時代をさかのぼれるはず。今は家族の歴史に無関心な時代です。しかしもし、誰か一人でも欠けたら、別の出会いであったなら、現在の自分はいないはずです。そう考えると決定的な一回性、不思議な「神の選び」があったと言えます。
 マタイの記した系図は不自然です。「エッサイの木」が言う、誰と誰が結婚してと続けば、無限に横にも縦にも拡がる大樹の形になるはずですが、この系図は一直線です。その不自然さに特別な「選択」が込められているようです。つまり、神の選択と人間の応答。「したたかな、癖の強い、駆け引きの、命がけの」人たちの生きざまにです。
 イエスは「神はこの石ころからでもアブラハムの裔を起こすことが出来る(マタイ3:9)と言われました。自分がダビデの子孫だという偉ぶりはなく、石ころからでも起こされる<選び>の子だと、神の主権を明言されました。アブラハムからイエスまで41代の選びで、わざわざ母方の名(マリアも)も5名記されていますが、18節からは父ヨセフと血縁がつながらない形で、「霊によって」マリヤの胎から生まれたというのです。
 さて、私たちは今、血縁の系図の先端にいます。ならば系図は大樹の形になります。しかし信仰の系図、神の選び(特権ではなく、用いようとされる計画)の系図もあるはずです。それは不連続の、例外ありの、人の思いを超越した不思議な系図となります。
 ルツはエリメレク家の嫁であってもモアブ人であるために、ユダヤ人の系図からは無視されるのが通例でしょう。しかし神は、ボアズの眼差しを通してルツ(友情の意)の真実を選び、オベド(僕・礼拝者の意)が生まれました。そしてオベドはエッサイを、エッサイはダビデをもうけた、と続けます。
 これが聖書の記す「エッサイの木」です。信仰によって私たちはエッサイの木の枝とされ、「神の思いが実るとき」を心して待つのです。