2014.12/21 たましいの喜び

旧約聖書 出エジプト記15章19-21節
 15:19 ファラオの馬が、戦車、騎兵もろとも海に入ったとき、主は海の水を彼らの上に返された。しかし、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだ。15:20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。 15:21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。
主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。

旧約聖書 サムエル記上2章1-10節
 2:1 ハンナは祈って言った。
「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。 
2:2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。 2:3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。
 2:4 勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。 2:5 食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。 2:6 主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。
 2:7 主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。
 2:8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。
 2:9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。 2:10 主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」

新約聖書 ルカによる福音書1章46-55節
 1:46 そこで、マリアは言った。
 1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、 1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、 1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、 1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。 1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、 1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
 1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い(片隅の)、この主のはしためにも目を留めて下さったからです。
 一日の仕事に疲れ、しかもヘマをしてやり残したとき。批判され責められて、落ち込んだとき。ふと「メサイヤ」をヘッドフォンで聴きたくなる。テノールが
「慰めよ、慰めよ、わたしの民を(イザヤ40章)」と歌い出すと、2時間40分の安息に包まれる。

 田舎娘のマリアが、あとあと「マニフィカート」と呼ばれる、壮大で力強い信仰詩を歌う場面を想像してみる。ヨセフとの平凡でささやかな幸せを待っていた娘がとつぜん神により重大な使命を負わされる。
 あり得ない、なぜわたしに?と自我が抵抗する。
「神に出来ないことは何もない。」と天使が告げると
「わたしは主の僕です。お言葉通り、この身に成りますように。」
神に降参した人の何とすがすがしいことか。
マリアの叫びは、いにしえのハンナの喜び、ミリアムの歓喜につうじる。連綿と受け継がれてきた神の勝利をたたえる歌。

 魂を震わせる喜び、霊を踊らせる歓喜はどこから来るのか。
魂(プシュケー)は息・命・心。霊(プニューマ)は気・風と言える。人間の本質であり、神からの贈り物。
 マリアはエリサベツから祝福されて神の思いを改めて体で感じた。神が先祖との約束通りに世界を新しくされる。わが身(魂と霊)を通して始まったのだと信じ歓喜する。
 もはや自分の貧しさや人々の偏見を恐れる必要はない。とは言えマリアにもイエスにも、この世は立ちはだかる。
「見よ。この子はイスラエルの多くの人が倒れ伏し、そして立ち上がるために、すなわち対決を迫る徴として据えられる方。あなた自身の心も剣で刺し貫かれる(ルカ2:34本田哲郎訳)」とシメオンが預言した通りに。

 聖霊が魂と霊に働きかけると、私たちは神の主導権に信頼し耐える力をいただく。
 私が生まれた年、1955年12月1日、42歳の黒人女性の「ノー」が歴史を動かし始めた。
 仕事帰りの混んだバス。黒人専用席最前列に座っていた彼女に運転手が立つように命じた。白人席が満席になったときは黒人席の一列全席を空ける規則になっていた。彼女は従わず逮捕され留置された。この人はローザ・パークス。確かに身体は疲れていたが「唯一の疲れは、屈服させられることに疲れていたのです。」
 この小さな抵抗はモンゴメリーの黒人たちの尊厳を呼び覚まし、バスボイコット運動が始まった。市民の75%の足であったバスを横目に支持者は徒歩で職場に通い続けた。さまざまな謀略や脅しがあった。11ヶ月後に連邦最高裁がアラバマ州の人種分離法が違憲であると断定するまで徒歩運動は続いた。
 この時、一緒に先頭に「立たされてしまった」のが、この町に着任したばかりのMLキング牧師であった。ローザは92歳まで生きて証しし、キングは39歳で凶弾に倒れて証しした。

 クリスマスは、神が小さく弱い者を立てて下さるとき。「新生」させて下さる神のわざ。その徴としての神の独り子イエスを、我が身に迎える「たましいの喜び」のとき。

2014.12/14 神の道を通せ

旧約聖書 イザヤ書40章1-5節 
40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。40:2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
40:5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

旧約聖書 サムエル記上16章4-7節 
16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
16:5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
16:6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
16:7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

新約聖書 マタイ1章18-25節 
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ
イザヤ(ヤハウェは救い)は、今から2800年程前の預言者です。北と南の大国にはさまれて、内憂外患の時代に活動しています。王も国民も神殿礼拝を盛んに行いますが、心に神はいませんでした。イザヤはただ一人、声をあげ神に立ち帰れと訴えますが聴く人はありません。ついに紀元前587年、バビロニアに滅ぼされてしまいます。エルサレムは異国の民が主人になり、王家をはじめ多くの国民がバビロンで数十年(数え方によって50年、70年)の寄留生活を強いられました。
人間は本来の生活から離れても、良い意味でも悪い意味でも環境に順応します。バビロン捕囚と言っても、牢獄生活だった訳ではありません。
こんな思い出があります。松本少年刑務所で年に1度、クリスマス礼拝に一般人が参加できるときがあります。教誨師が囚人にこう語りかけました。「お前らな、この檻(おり)から出ることだけ考えているだろうがな、この檻から出ても別の檻に囲まれているんだぞ。」兄貴分として慕われた牧師だからこそ言えた台詞です。
刑務所の数年間を、出所の瞬間だけを目的に過ごす囚人は、その時迎えに来る「本物の兄貴分」の手下に舞い戻ってしまうのです。最近は、高齢者の再犯率が非常に高く、刑務官を悩ましているそうです。
さて、イザヤはバビロンで生活している同胞に、苦渋から解放された「後のこと」を冒頭の呼びかけとして命じます。自由になれたら「どんな生き方をするのだ」と自問しろということでしょう。実際、地図の上ではエルサレムまでの道は大河に沿って曲がりくねった荒野の道です。まさか砂漠を横切るハイウエーを造れという意味ではないでしょう。古代の精鋭部隊ですら、道に迷い砂漠で屍になったからです。
では、荒野に「谷を埋め、山を削り、狭い道をひろく」とはどんな工事になるでしょうか。大事なのは目的です。イザヤは「主のために、私たちの神のために」と呼びかけています。やがて、主なる神が通られるための道を通せということです。

 ヨセフは妻マリアの妊娠を知って、悩みに悩みました。普通のユダヤ人なら離婚か、法に訴えて処罰するかも知れません。
ヨセフは「義しい人」でした。律法の示す正しさと、自分の大切な人を護る方法はないか求める愛(情)の正しさの間で毎晩悩んだのでしょう。そこに天使が夢に現れて告げたのです。
「ダビデの子、ヨセフよ。恐れず、妻マリアを迎えよ。胎の子は聖霊によるからだ」と。
目の前の難題も、神の御旨によって起こっている、そう信じて引き受けるときに「神の道」が拓けてくるのです。

2014.12/7  この身に成りますように

旧約聖書 イザヤ書11章1-5節
11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。11:5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。

新約聖書 ルカによる福音書1章26-38節
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。1:37 神にできないことは何一つない。」1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

「この身に成りますように」
「ご覧下さい。私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」
とても力強いマリアの返事です。この女性はどんな素性の人なのでしょうか。ただ「ナザレに住むダビデ家のヨセフのいいなずけ」としか知り得ません。
一方「時が満ちると、神はその息子を女から、しかも律法の下に生まれた者として(ガラテヤ4:4)遣わし」とパウロが告げたように、神の律法(思い)の下でマリアは母とされたのだと。
 新共同訳では「見よ」という重要な言葉が抜けています。原文では「見て下さい、わたしは・・・です」と天使に答えているのです。「仕方がありません。納得できませんがお引き受けしましょう」ではなく、腹を決めて大胆に引き受けているのです。
 最初、天使が現れたとき、マリアは「戸惑い」「何のことか考え込み」ました。さらに天使がこれから起こることを告げると「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。断じてありません」と精一杯の弁明と抵抗をしています。
ところが天使が「聖霊があなたに降り・・・神に出来ないことは何もない」と3度目のお告げをすると、「ご覧下さい。わたしは主の(女)僕です。お言葉どおり、この身に成りますように」と急に受容し、しかも積極的な返事になっていきました。
 実際に天使とマリアとの間にどんな会話が交わされたのか誰も知り得ません。ただ、ルカは「私たちの間で実現したことについて・・・すべてのことを初めから詳しく調べ、順序正しく書き、確実であることを理解して欲しい」と書いていることからも、信じるに足る記録なのです。
 何が正しく何が間違っているかは、送り手と受け手の真剣さにかかっています。送り手である神が、天使(神が信頼する伝達者)を通して、受け手であるマリアに意思を伝えた。
最初マリアは自分の尺度、価値観でお告げを理解できませんでした。けれども、彼女は「律法の下で生きていた」ので幼いときから神の言葉で育てられています。自分の民の歴史をよく聞かされていたはずです。そして、「聖霊によって」すべては劇的に結びつけられました。
 マリアには叔母エリサベツが備えられていました。神は重要な仲間を与えてくれます。そして、ここで起こった変化のように、数知れない無名の信仰者が神の僕となってこの世に仕えてきました。
私たち一人一人も「マリアであり、ヨセフ」なのです。 そう信じて行動できるのは聖霊によるのです。「ご覧下さい。わたしも主の僕です。あなたのご意志が私に成りますように。(Let it be)」そう応答したいものです。

2014.11/30 神の思いが実るとき

新約聖書 マタイ福音書1章1-17節
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、1:4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、1:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。
  ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、1:7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、1:8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、1:9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、1:10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、1:11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
1:12 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、1:13 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、1:14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、1:15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

旧約聖書 ルツ記4章11-22節
4:11 門のところにいたすべての民と長老たちは言った。
「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。4:12 どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」
4:13 ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。
4:14 女たちはナオミに言った。
「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。4:15 その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」
4:16 ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。
4:17 近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。
4:18 ペレツの系図は次のとおりである。ペレツにはヘツロンが生まれた。4:19 ヘツロンにはラムが生まれ、ラムにはアミナダブが生まれた。4:20 アミナダブにはナフションが生まれ、ナフションにはサルマが生まれた。4:21 サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。4:22 オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。


 「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」で新約聖書は始まっています。
 「エッサイの木」というアドベントに読むお話の本が出ました。
 「昔は、聖書がある家ならたいてい、聖書を開いた一番はじめのページに、家族の歴史が記録されていたものです。だれとだれが結婚して・・」
 これを読んであることを思い出しました。18年前あるお葬式をさせて頂いた折に手にした故人愛用の聖書の裏扉に、故人にまつわるご家族の略歴が丁寧な字で簡潔に記されていたのです。その時は「几帳面な人だなー」と思っただけですが、とても重要だと、その本を読んで気付きました。いつかご家族に重要なメッセージとなることを意識して書かれた、と言うことにです。
 誰もこの世で「一人ぼっち」ではあり得ません。産んでくれた親、育ててくれた人がいる。そのまた親と時代をさかのぼれるはず。今は家族の歴史に無関心な時代です。しかしもし、誰か一人でも欠けたら、別の出会いであったなら、現在の自分はいないはずです。そう考えると決定的な一回性、不思議な「神の選び」があったと言えます。
 マタイの記した系図は不自然です。「エッサイの木」が言う、誰と誰が結婚してと続けば、無限に横にも縦にも拡がる大樹の形になるはずですが、この系図は一直線です。その不自然さに特別な「選択」が込められているようです。つまり、神の選択と人間の応答。「したたかな、癖の強い、駆け引きの、命がけの」人たちの生きざまにです。
 イエスは「神はこの石ころからでもアブラハムの裔を起こすことが出来る(マタイ3:9)と言われました。自分がダビデの子孫だという偉ぶりはなく、石ころからでも起こされる<選び>の子だと、神の主権を明言されました。アブラハムからイエスまで41代の選びで、わざわざ母方の名(マリアも)も5名記されていますが、18節からは父ヨセフと血縁がつながらない形で、「霊によって」マリヤの胎から生まれたというのです。
 さて、私たちは今、血縁の系図の先端にいます。ならば系図は大樹の形になります。しかし信仰の系図、神の選び(特権ではなく、用いようとされる計画)の系図もあるはずです。それは不連続の、例外ありの、人の思いを超越した不思議な系図となります。
 ルツはエリメレク家の嫁であってもモアブ人であるために、ユダヤ人の系図からは無視されるのが通例でしょう。しかし神は、ボアズの眼差しを通してルツ(友情の意)の真実を選び、オベド(僕・礼拝者の意)が生まれました。そしてオベドはエッサイを、エッサイはダビデをもうけた、と続けます。
 これが聖書の記す「エッサイの木」です。信仰によって私たちはエッサイの木の枝とされ、「神の思いが実るとき」を心して待つのです。

2014.11/23 神と隣人に感謝しよう

 ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は一エファほどにもなった。それを背負って町に帰ると、しゅうとめは嫁が拾い集めてきたものに目をみはった。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出した。
 しゅうとめがルツに、「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」と言うと、ルツは、誰のところで働いたかをしゅうとめに報告して言った。
 「今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。」
 ナオミは嫁に言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」ナオミは更に続けた。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」
 モアブの女ルツは言った。「その方はわたしに、『うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでいなさい』と言ってくださいました。」
 ナオミは嫁ルツに答えた。「わたしの娘よ、すばらしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし。」
 ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った。
(旧約聖書 ルツ記2章17-23節)

 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
(新約聖書 使徒言行録2章43-47節)


 「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように」
一条の光が魂に差し込んだとき、とっさに発した感謝のことば。

作家の曾野綾子氏は日本人の甘さを「私のような高齢者までが『安心して暮らせるようにして欲しい』と言う始末」と憂い、「安心して暮らせる社会はないことを自覚し、そこをスタート地点に物事を考えないといけません」と言い切っています。

ルツ記はたった7頁4章の物語です。主人公のルツは未亡人で、ユダヤ民族からは差別されていたモアブ人でした。物語を織物にたとえるなら、縦糸は見えない神の計画。横糸はルツの真実な生き方です。干ばつで行き詰まった一家が、先祖伝来の土地を手放し隣国で寄留者として生活を始めました。ところが、すべてが裏目となり男手は皆死んでしまいます。妻のナオミは嫁のルツとオルパが再婚することを願いつつ、単独ベツレヘムへ帰る決心をします。しかし、ルツだけはナオミと離れることを拒み、ついてきて見知らぬ地でたくましく働き始めました。

折しも大麦の収穫期でした。掟によれば、未亡人や孤児など生活困窮者は畑で落ち穂を拾うことが許されていました。実際は迷惑がられたり意地悪をされて惨めな経験をすることが多かったのです。しかし、ここに神の計画がありました。落ち穂拾いをしていたのがボアズの畑だったからです。彼はナオミの近い親戚です。ボアズはモアブから姑ルツを慕ってついてきた女性の噂を耳にし、その孝行と働きぶりに感心していたところ、その女が自分の畑で働いていたのですから驚き、そして思案しました。

集められる落ち穂はたかが知れています。ところが、その日ルツが持ち帰った籾は1エファ(23㍑)もあり、ナオミは驚くと同時に親切にして貰ったんだと察しました。聞いてみると「畑の持ち主はボアズ」とのこと。ナオミは息が止まるほどでした。

世の中は甘くありません。ルツは畑で意地悪もされず運が良かったのでしょうか。むしろ運の悪い女性です。夫を亡くし、異国で生きることになったのですから。

しかし「あなたの民はわたしの民」「あなたの神はわたしの神」と信じて真心を込めナオミに尽くしていく中で、神の御手の働きが明らかになり始めたのです。

聖書が示す生き方は「安心を確保する生き方」とは正反対です。現実の厳しさや苦しみに弱音を吐いてもいいのです。その弱さが天を見上げる動機になります。実際は何も解決していないのに、不思議な安心を得、必要な物は必ず与えられるという確信を発見するのです。パウロが言う「いつも感謝していなさい」とはこのことです。

◆収穫感謝◆
日本キリスト教団の教会では11月第4日曜を「収穫感謝・謝恩日」としています。
アメリカから伝わった感謝祭の起源は、メイフラワー号で移住した人々が先住民に助けられて冬を越せたことに感謝する行事でした。200年後リンカーンは南北戦争で分裂した国民を感謝の心で団結させるために、11月第4木曜日をThanksgiving Dayとして連邦休日としました。これを宣教師が日本のプロテスタント教会に伝えました。
日本では秋の米の収穫を祝う「新嘗祭(にいなめさい)」の行事があり、戦後にアメリカの文化と働く人々への感謝とを重ね合わせて、1948年から、11月23日を「勤労感謝の日」としています。

2014.11/16 神に通らされる命への道

 わたしも女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから定めに反することではありますが、わたしは王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。(エステル記4:10-17)

 大祭司とサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。 (使徒5:12-26)


 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」 と天使の命令。

 アナニヤ夫妻の事件以来、聖霊への畏れを経験した群れは「教会」と呼ばれます。その活動は、みことばの礼拝と12使徒が民衆の間に分け入ってなす癒しなどでした。
 ソロモンの回廊が礼拝の場、街は伝道と奉仕の場。教会には仲間が加わり、エルサレムだけでなく村々の民衆も「きっと、彼らは神のしもべだ」と言い合うようになりました。

 これに危機感を抱いたのが神殿の権威と商権をにぎっていた大祭司一族です。彼らは使徒たちを一網打尽にして牢にぶち込みました。ところが不思議なことが起きます。天使が夜の間に使徒たちを脱出させ、ご丁寧に牢の鍵は元通りにかけていきました。

 夜が明けるとすぐに、使徒たちは境内で「この命のことば」を語り出します。
 天使の命令だからと言うより、黙ってはいられなかったのです。牢からの開放、イエスキリストの十字架、罪の赦しと復活、聖霊の働き、すべて自分たちが経験した救いの証しです。
 神の救いのわざは、経験した人が語るとき人の心に伝わっていきます。その人は他の人の経験に共感します。つまり、聖書の物語も自分の経験と重ねて追体験できるのです。

 さて、エステル記は、紀元前5世紀のペルシャ王クセルクセス1世(アハシュエロス王)の時代を背景にした民族解放の物語です。
 ユダヤの孤児がペルシャ王に見初められ妃となって寵愛されます。王宮ではしばしば陰謀が繰り返され、その時々の身の振り方一つで出世することもあれば、身を滅ぼすことにもなる危険な場所です。王の寵愛を受けているエステル妃といえども、一つ間違えば命を落とすことになるのです。
 ある時、ユダヤ民族の絶滅計画が明らかになり、ユダヤ人のエステル妃に事の解決が求められます。しかしエステルは引き受けることをためらいます。
 その時、育ての親モルデカイが、「なぜ、口を閉ざすのか。この時のためにこそ(神によって)王妃に取り立てられたのではないのか」 と伝言を送ります。この言葉で彼女は決心を固め、王の前に立って事の次第を訴えたのでした。
 果たして形勢逆転。計画者ハマンは絞首刑となり、ユダヤ民族は救われたのでした。これが「プリム(くじ)祭」の故事です。

 これらは信仰の勇者の物語です。しかし聖書を丁寧に読んでいくと、名もない一人一人が神の守りの中で、その時代の決定的な役割を引き受けていることを発見します。力に対抗する勇気ではなく、素朴な信仰によって立ち振る舞い、神の働き、あるいは天使の助けと言えるような不思議な導きで「天命」を全うしているのです。
 私たち一人一人にも神のご計画があり、永遠の命への招きが確かにあります。その招きに応えて「救いを勝ち取る」のです。

2014.11/9  献身と聖霊

 「わたしは主に罪を犯しました」。ナタンはダビデに言った。「その主が、あなたの 罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、・・・ (サムエル記下12:13-16)

 ペトロは言った。「アナニヤ、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ聖霊をあざむいて、地所の代金の一部を自分のために残したのか。・・どうして、こんなことをたくらんだのか。あなたは人をあざむいたのではなく、神を欺いたのだ。」 (使徒5:1-11新改訳)

 「あなたは人間をあざむいたのではなく、神を欺いたのだ」 
このように面と向かって言われた人はどんな気持ちでしょう。今日の御言葉はとても恐ろしいものです。

 信仰の群れは「聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語り」「心も思いも一つ、必需品も共有(~4:35)」という素晴らしいものでした。
 しかしその時、密かに危機が迫っていました。ペンテコステ直後は「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パン裂き、祈りに熱心」で「すべての人に畏れが生じた、なぜなら・・・(2:43)」とあります。

 急速に拡大した信者の群れが、大切な基本を見失う淵に立っていました。それは、「主へのおそれ」です。そして「あなたの罪は赦された」という救いの原点です。

 アナニアとサフィラは行動的な信仰者だったに違いありません。仲間内の貧しい人のために衣食住の必要がうなぎのぼりでした。あり余る資産から寄付する人も、普通の人も、貧しい人までが献げることに熱心でした。
 アナニアとサフィラも資産を処分しましたが、そこにわずかな「パン種:世俗的な計算」が混じったのです。代金の一部を持ってきて「これがすべてです」と使徒に差し出したからです。
 単純に「これだけ献金します」なら神は喜んで下さったに違いありません。わざわざ嘘の額を告げる必要などなかったのです。

 私たちの教会では、献金の祈りカードに「今、精一杯の献金を添え、献身の証しとして」と書いてあります。この原文を決めるとき私はとても迷いました。「私を始め、本当に精一杯だろうか、それを会衆に求めて形ばかりにならないか?」畏れをもってこの祈りを用意しました。
 もし、このカードに込められた思いを真剣に受けとめてくれるなら、献金のたびに「精一杯」を自問自答していきたいのです。額はまったく自由です。「真心から」献げられる奉仕と感謝の気持ちを神は求められます。口先で精一杯とは恐ろしくて言えないでしょう。

 ダビデは神の祝福を溢れるばかりに受けた王です。ところが聖書には、思い上がりの罪を何度も重ねたこと、結婚と子育てに失敗したことも正直に書いてあります。

 にもかかわらず理想の王と慕われるのはなぜでしょうか。第1に正直だったこと。過ちも弱さも認め、神を恐れて赦しを求めた人でした。第2に真実な友がいたこと。若い頃から命がけで一緒に戦った仲間がいました。腹心の友が「それは、お前だ」と恐ろしい告発をした時に、友の言葉を神のことばとして恐れ、赦しを受けてやり直せました。

 いつの時代も、誰でも「主へのおそれ」を忘れず「罪の赦し」を信じて生活することが希望のある人生、神への献身です。その献身は聖霊が導いて下さるものです。