2020.6.21 スタン・バイ・ミー Stand by me

今日は父の日です。110年前のこと。再婚せずに6人兄弟を育ててくれた父親を偲んで27歳になった娘が牧師に記念礼拝を頼みました。「母の日があるように、愛してくれた父を記念したい」と。彼女の父は6月生まれでした。
 母の日も、父の日も、親を見送って改めて注がれた愛を思い出し、感謝がこみ上げてきて礼拝を献げようと思ったのではないでしょうか。
 それは母や父に宿った信仰が子どもに受け継がれ、楽しい思い出も苦しい思い出も親子で通った教会にあったという点で共通しています。
 残念なことに行事としては良く知られていますが、肝心の教会で親から子への信仰継承が少なくなっています。
 さて、今朝のメッセージの題名は、ある人にとっては懐かしい響きに、ある人には何だこりゃ、という印象を与えたと思います。
 実は、御言葉を黙想する中で突然思い浮かんできたソウルミュージックの曲名なのです。作詞作曲はベンジャミン・E・キングという黒人の歌手です。
 この曲は大ヒットし、ジョンレノンなど有名なミュージシャンがカバーしていますし、少年の成長過程を描いた映画の題名にもなりました。
 一見、恋人への愛の賛歌のような歌詞ですが、調べてみると、あるゴスペルグループのStand by me Fatherという歌詞に触発されてこの歌は生まれたのです。
 それは詩篇46篇で今朝交読したものです。マルチンルターはこれを信仰の拠り所としました。
「神が共にいてくださる。わたしを守る決して崩れない砦ようだ」という意味ですが、Stand by me これを訳せば「わたしのそばにいて下さい」ですが、主語を置き換えると「わたしの側に立ちなさい」と神が命じている意味になります。
 歌ではStand by meを何度もリフレインしていますが、わたしには聞く時の心境によってどちらの意味にも受け取れるのです。ベンジャミン・キングは音楽で財を築きましたが、少年たちを応援するStand by me foundationという財団を作って運営してきました。
 前置きが長くなりましたが、「人間は何に支えられて生きるか」というテーマをご一緒に考えたかったからなのです。
 創世記を読みます。主なる神は「アダムが独りでいるのは良いことではない。彼に差し向かう、ふさわしい助けを造ろう」と決断されました。
 彼を助けるふさわしい存在とは何、誰でしょうか。
 この頃は人間よりもペットに癒やされる、生き甲斐だという話を聞きます。20年も飼っていた犬が死んだとき家族を失ったように悲しみいとおしむ人もいます。ペットは愛情をもって飼えば素直に忠実に応えてくれるからなのでしょう。
 神ははじめに様々な動物をアダムの側に置きました。アダムはその一つ一つをじっくり観察して特性を理解し名前を付けました。名前を付けると言うことは、その対象に責任を持ち、同時に支配することを意味します。
 親や祖父母が生まれた赤ちゃんに名前を付けるとき、その子の誕生を喜び責任を負う気持ちを抱きます。「父と母を敬え」の意味が分かるように愛し、その愛に信頼して素直に従うように導き、そうして機が熟してきて、その子はいろいろな経験、考え方を知り、自分で判断できる能力を備え、責任を伴う自由を身につけます。その順番やタイミングはとても大切です。
 さて、動物たちはアダムに向き合い助けるものとして見つかったでしょうか。
 アダムに合う助けるものとは、対象として扱える物や動物ではなくて、心を通わせ、思いを交わし、時にはぶつかり合う霊的で人格的な存在でなければなりません。
 人間は相手を対象化し商品として、かつては奴隷として、今はその能力や見栄えを売ったり買ったりしています。これは人間性の損失です。
 アダムにふさわしい存在は深い眠りの中で、神によって形成され、目覚めたときに「出会い」ました。
 あばら骨の一部を抜き取り、その傷を肉でふさぎ、取り出したあばら骨で女を造り上げた。移植手術や臓器培養を思わせます。
 何千年も前の古代人にとって男と女の違いは何でしょう。体格、筋肉や脂肪のつきかたなど外見や機能の違いがあり、感じかたや行動様式、生殖や社会での役割などジェンダーの違いにきりがありません。当時の社会的な価値観や道徳が背景にある聖書は、男女や親子の関係で、差別的な表現がたくさんあります。
 さて、主なる神がイシャーをアダムの所に連れてきた、とあります。アダムが彼女を見つけたのではありません。「ついに、私の骨、肉といえるものだ」「これを女イシャーと呼ぼう。まさに男イシュからとられたものだから」とアダムは叫びました。切っても切れない「共同性」を「語呂合わせ」しています。
 こういう経過で男アダムは父母を離れて女イシャーと結ばれ、二人は一体となると表現されます。奇妙なことに最初の男と女なのに、父アブ母エイムが前提にあるし、アベルとカインの物語でも、町や社会が既にあります。しかし、その矛盾するような表現に、地上世界の本質とゆがみが見え隠れしています。
 次の言葉は意味深長です。人アダムと妻イシャーは二人とも裸だったが、恥ずかしがりはしなかった。エデンの園には最初喜びと信頼が溢れていましたが、2章の終わりになって、恥ずかしいという感覚が出てきます。これは3章で「食べてはいけない実」を食べた瞬間、抱いた否定的な感覚、感情です。喜びに満ちた二人のためのエデンの園に暗い影が忍び寄ってきます。
 今度は目を新約時代に移します。ペンテコステの日、ペトロは聖霊に満たされて熱い証しをしています。彼もユダヤ人です。巡礼で都に来ているユダヤ人と共通の土台であるダビデ王の話をして解き明かします。「ダビデ王を尊敬する皆さん。ダビデ王自身が預言していることを聞きなさい。神は独り子イエスにお命じになりました。私の右の座に着け。私がお前の敵を打ち倒し、お前は彼らを踏みつけるのだと。皆さんが殺したイエスを、神はあなた方の主人として、メシアである救い主とされたのです」と訴えました。
 これを聞いて人々は不安と恐怖に襲われ「とんでもない過ちを犯してしまった。私たちはどうすればいいのか」と助けを求める気持ちになっていきました。
 さて、私たちは神に造られ神に愛されていることは知っています。また、深い交わりとして夫婦があり、親子があり、教会の兄弟姉妹の関係があります。
 しかし、アダムとエバが陥ったように祝福に対して無頓着で神から離れるようなことがあります。親鳥が雛を翼の下にかくまうように集めてくれるのに逆らう私たちがいます。その時サタンは攻撃してきます。
 スタンバイミー、主よ、私たちの傍らにいて助けて下さい。
 スタンバイミー、神が呼びかけています。私の側に立ちなさい。
 インマヌエルの主は私たちと共にいらっしゃいます。聖霊の働きとして。
 祈ります。ペンテコステの守りの中で過ごしています。外にはコロナや困難な社会状況があります。内には信仰の弱さがあります。このような私たちですがあなたが共にいて下さるのを信じさせて下さい。今週どんな時も。イエスキリストの名によって アーメン

Stand by me Benjamin E King作詞作曲
 太字は詩篇46:2-3に触発された歌詞
When the night has come  And the land is dark
And the moon is the only light we’ll see
No I won’t be afraid, no I won’t be afraid
決して恐れない
Just as long as you stand, stand by me
If  the  sky  that  we  look  upon  should  tumble  and  fall
たとえ見上げる空が崩れて落ちようと
Or  the  mountains  should  crumble  to  the  sea
山が砕けて海の中に去ろうとも・・私は恐れない