2015.9/27 嘆きが大きな喜びに

◆(列王下4:32-37、使徒言行録9:36-43)
 彼女はいつも親身になってかかわる人で、痛みを知って分かち合う人だった。
 (本田哲郎訳 使徒9:36)
 タビタは女弟子として「善い行いや施し」に励みました。「人にしてもらいたいことを人にもしなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすればたくさんの報いがあり、いと高き方の子となる(ルカ6:27-36)」と言われたイエスの言葉を実行し、とりわけ未亡人に尽くした人として紹介されています。
 9章には3つの「驚くべき事」が記されています。イエスを信じる人々を滅ぼそうとしたサウロが回心して伝道者となったこと。ペトロにより中風の人が元気になったこと。死人が生き返ったことです。イエス(の霊、名)によって人は、驚くべき奇跡の当事者になる、という話です。
 タビタのような人が教会にいる。それは素晴らしいことですが、愛すべき人と言えども、必ず死ぬ時がやってくるのです。教会の仲間は遺体を洗い、屋上の間に寝かせました。その後で香油を塗り亜麻布で包んで葬るのです。ところが近くの町リダにペトロ先生が滞在されていると聞いて「弟子たち」は、急いで二人を使いに出しました。
 ペトロが到着すると、かの未亡人たちがタビタがどんなに善い人だったかを泣きながら訴えました。しかし、それは思い出に過ぎないのです。
 意外なことにペトロは皆を追い出して一人になり、跪いて祈りました。奇跡の経験は何度もあります。しかし今回は特別です。死んでいるのです。ペトロはひざまづいて(これは礼拝の姿勢です)神の答えを待ちました。そして遺体に向かい「タビタ、起きなさい」と呼びかけました。
 かけがえのない人が亡くなると、悲しみと同時に、不思議な怒りを感じるものです。この死は理不尽である。この人だけは生かして欲しい、死んでいいはずがないと。
 アルフォンス・デーケンという上智大学の先生が「よく生き、よく笑い、よき死と出会う」という本で、思春期の衝撃的で悲しい出来事を振り返り、それらが「死生学」を志す遠因になったと語ります。4歳の妹の死。連合軍の戦闘機に狙われ九死に一生を得たこと。ドイツの敗戦が決定的になったころ、家を接収しにきた連合軍兵士を白旗で迎えに出た祖父が突然彼らに銃撃されて死んだこと。敬虔なカトリックの家に生まれ「汝の敵を愛せ」という教えで育ったアルフォンス少年の信条が打ち砕かれます。けれども短い時間とはいえ悩み抜き、祖父を殺した兵士たちに「ウェルカム」と手を差し出して家に迎え入れたのです。
 死に向き合い、死の深い意味を求めるとき、突然、生かされている意味が示され、しみじみとした喜びに浸ることが出来るのです。