◆(ダニエル書3:13-18、使徒言行録9:19b-25)
もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉からわたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手からわたしたちを救い出されます。
たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。(口語訳3:17-18)
戦後70年の特別企画がテレビでも街中でも盛んに行われています。昨日は、神風特攻で戦死した上原良司(現池田町出身)の「自由への憧れ」と「いまを生きる」をテーマに、戦時世代から高校生までの、世代を超えた発表を聞く機会がありました。
生き延びるか殺されるか。このような世界で「その時」一個人として、人間として、どのように思い判断し行動するかは、普段から誰を信じ何を基準に生活しているか、どのような生き方をしているかが問われる真剣な問題です。
「たといそうでなくても」という本があります。日本が1910年から敗戦まで南北朝鮮を併合した時期に、千を超える神社が建てられ拝礼が強制されました。会堂もろとも信徒が焼き殺された事件(提岩里教会)もあるほど過酷な弾圧で民衆が苦められました。ところが、日本の教会の代表は「神社参拝は国民儀礼」として拝礼をするよう現地に赴き説得していたのです。
安利淑(あん・いすく)さんと数名が「帝国議会」の傍聴席から抗議の垂れ幕を投げ込み捕らえられました。その事件に至る民衆の苦しみと教会事情、真剣な祈りと行動が「たといそうでなくても」に記されています。韓国が8月15日を「光復節」として祝うゆえんです。
「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」の遺書で知られる上原良司の「自由への憧れ」と悲惨な戦争実態(結果的に被害者の立場で)を、いま語り継ぐ事はとても意義があります。
しかし、それ以上に教会は過去の罪を知り、学び、告白しつつ、赦された罪人として「信仰の言葉」で自由と正義を語らなければならないのではないでしょうか。その内容の中心は「この人こそ、神の子である」です。
若きサウロは徹底的にナザレのイエスを否定し、信じる者を弾圧するユダヤ当局の手先となっていました。そのサウロが復活されたイエスに出会って、自分の深い罪を知らされ、同時に赦されたことを悟りました。
許されざる罪を示され、その深い罪を自分ではどうすることも出来ない弱さを自覚したとき、神の真実がその人をとらえ、イエスの力に頼って生きる人に生まれ変われるのです。それが自由への出発です。正義のよりどころです。