2015.6/14 子どもも大人も一緒に

(サムエル記上3:1-9、マルコ10:13-16)
 「アーメン、あなたたちに言う。神の王国を子どもが受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはない。」 そして彼(イエス)は、子どもたちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。(岩波訳 使徒言行録9:15-16)
 6月第2日曜を「花の日・こどもの日」として守っています。母の日と同様に北米の宣教師によって伝えられた意義ある行事ですが、最近はあまり知られていません。
 誰にでも「子ども時代」があります。赤ちゃん、乳児、幼児、少年時代色々ですが、大人になって思い出せるのは、せいぜい物心ついてからの出来事かも知れません。
 しかし、思い出せない時期の毎日の経験こそ、大切ではないでしょうか。家族とどのように過ごし、褒められたり叱られたり、笑ったり泣いたりしたか。反対に親の考えや都合に振り回されて、自由に遊べなかったり放置(ネグレクト)されたり。
 150年程前、米国東部のメソヂスト教会で、会堂を花で飾って子どもを真ん中に迎えた祝福礼拝を始めました。親には神の恵みと戒めの下で養育するよう勧めたのです。
 その頃、ヨーロッパもアメリカも経済成長のまっさ中で、子どもが働き手として期待され、家族が一緒にいる時間は失われ、信仰を軽んじる風潮が拡がっていました。
 イエスの時代も、子どもの立場は今とそんなに違わなかったようです。男に生まれるか、女に生まれるかは決定的でした。さらに職業の違いや貧富の差、健康か病気か、神の掟を守っているか守っていない(守る余裕がない)か。
 イエスは村々を回りながら、毎日のように病気を癒やし、教え、忙しい毎日でした。ある日、子どもを連れた人々がイエスの周りに集まってきました。父親や母親たちはわが子のために、手を置いて祈って欲しいと願ったのです。
 手を置くという動作は、神さまの恵みがあるようにという祝福のしるしです。次から次へと親子が近づいてきて大変なさわぎです。
 これを見た弟子は、この人たちを追い払い始めました。
「先生はお疲れだ。お前たちにかまっている暇はない」と考えたのでしょう。その時、大きな声がしました。イエスさまが本気で怒ったのです。
 「この子たちを私のところに来るままにさせておけ。邪魔をするな。なぜなら、神の王国はこのような者たちのものだからだ」
 ひどく叱られて、本当にびっくりした弟子たちですが、この出来事は忘れられない記憶になりました。イエスの懐に真っ直ぐに飛び込む、子どものような、この親子のような求めをイエスは喜ばれます。今日も一緒に祝福を求めましょう。