2015.4/19 いのちの種を蒔こう

(イザヤ書60:14-22、使徒言行録8:1-8)
 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散らされていった。(使徒言行録8:1)
 イエスは「彼を信じる人が一人も滅びないで、永遠の命を得るため(ヨハネ3章)」にこの世にお生まになりました。
 神の意志をあらわすために、この世の知恵や常識では矛盾としか思えない神の命令に徹底的に従われました。民の指導者の理不尽な仕打ちにさえ耐えて。
 そうしたイエスを主と仰いで従った人々が、同じような不名誉や死を甘受したこと、同胞のユダヤ人から弾圧され虐殺されたことが新約聖書に記されています。これは神の失敗、神の誤算なのでしょうか。
 福音とはうれしい知らせ、を意味します。元々は戦争に勝った知らせのことです。敗者となれば名誉を奪われ奴隷とされ国は消滅しました。勝利したその時は福音でも、恐ろしい経験を忘れてしまえば、戦争を繰り返し、死の恐怖におびえなければなりません。
 福音は、教会によってずいぶん違う意味で使われるようになりました。神が死の恐怖から永遠に解放して下さったという喜び、一人を救うために自分を差し出すことができる喜びです。福音を拒む人には、ステファノの生き方や死に方は理解できないでしょう。
 さて、ステファノへの暴力はギリシャ系信者への弾圧にエスカレートしました。本当に理不尽なことです。けれども、この受け入れがたい事実が、神の計り知れない計画と結果を教えてくれます。
 狭いエルサレムで爆発的に教会は大きくなりました。組織も整い信者も増え続け、献金もどんどんささげられるようになったとします。その時、指導者はどんな展望を持つでしょうか。みことばを忘れるなら、そこに立たないなら、権威的でこの世的な教会になっていくに違いありません。
 神さまは、麦に喩えて福音の拡げ方を示されます。食べてしまえばおしまいの穀物の種。農夫は大切な種を畑に蒔きますが、豊作になるかどうかは、あらかじめ分かりません。ただ「蒔かぬ種は生えぬ」です。
 イエスは言われました。「アーメン、アーメン。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ(ヨハネ12:24)」その言葉へ信頼し従うのが信仰生活です。
 散らされた人々は着の身着のままだったに違いありません。ここで「散る」という単語は「種をまき散らす」というパレスティナでの農作業風景をあらわしています。
 エルサレムを追われた信徒たちが持ち出せたものは「イエスの名、福音の種」だけでした。そして逃亡先はユダヤ・サマリア地方。
 そこはイエスがすでに耕されていた畑(ヨハネ4章)でした。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる(詩126)」が実現し始めています。
 私たちは25年目の歩みへと押し出されました。今、吹いてくる風に載せて「福音の種」を蒔きにでかけましょう。