2015.4/12 主の言葉を思い出しなさい

(創世記15:1-6、ルカによる福音書24:1-12)
 ああ、ものわかりがわるく、心のにぶい人たちだ。預言者たちが告げたことを、あなたたちは信頼をもって受けとめようとしていない。キリストはこういう苦しみを受けてこそ、栄光に入るはずではなかったのか。(ルカ24:25 本田哲郎訳)

 3月21日「四日市公害と環境未来館」がオープンしましたが、開館までの道のりはとても険しかったそうです。
 1960年頃からの飛躍的な工業化で経済発展した日本各地では、コンビナートの煤煙や自動車の排ガスで空はかすみ、喘息患者が続出しました。私が中学の頃の教科書には、工業化の光と同時に陰の部分も書かれてはいましたが、患者たちの日々の苦しみや救済は後回しにされ、公害防止が制度化され青い空が回復しても「公害の歴史と教訓」を伝える会館の建設は、政治的には邪魔者だったのです。
 命に関わる大事なメッセージなのに、人々の心に届かない。大切な人の遺言なのに遺された人々がその意味をくみ取れない。
 しかし、時が満ちると「いのちの言葉」は必ず人々を動かし始めます。イエスの復活の出来事は、それを証言しています。
 イエスを慕う女性たちが、週の初めの日の出前、準備していた香料を携えてイエスの墓に行きました。すると墓の「大きな丸石」が脇にあり、中に入り確かめると遺体がなくなっていました。せめてイエスをきれいにしてあげたい、思いがかなわず途方に暮れていると(原文には、見よ)二人の天使が現れました。突然、輝く見知らぬ人が目の前にいれば誰だって怖くなります。「なぜ、生きた方を死人の中に捜すのか」
 主イエスは、わずか数ヶ月前「必ずこうなる」と何度も弟子たちに言われました。それは恐ろしい内容でした。私たちは望まない話を何度聞いても、真に受けられないのです。恐ろしい話の結末が喜びでも、前半の内容に耳をふさいでしまい、全体を聞き損ねています。けれども、幸いなことに大好きなイエスさまの声が耳に残っていました。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」そして何が起こっているのかじゅうぶん分かっていないのに、喜びのあまり飛んで帰って「主はよみがえられた」と報告しました。ところが、男弟子には相手にされなかったのです。これも現実。
 イエスの弟子を片っ端から捕まえて死に追いやっていた青年サウロは復活のイエスに出会って180度変えられました。「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと。葬られたこと。また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。次いで・・そして最後に・・私にも」と。