2015.3/22 私たちはこうして救われた(2)

旧約聖書 申命記18章
 18:15 あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。 18:16 これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」と言った。
 18:17 それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。 18:18わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。 18:19 わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。

新約聖書 使徒言行録7章
 7:17 神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。 7:18 それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。
 7:19 この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。 7:20 このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、 7:21その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。 7:22 そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。
 7:23 四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。 7:24 それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。 7:25 モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。
 7:26 次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』 7:27 すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。 7:28 きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』 7:29 モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。
 7:30 四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。 7:31 モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。 7:32 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。
 7:33 そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。 7:34 わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』 7:35 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。 7:36 この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。
  7:37 このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』 7:38 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。
  7:39 けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、 7:40 アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』 
 7:41 彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。
 7:42 そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。
 『イスラエルの家よ、/お前たちは荒れ野にいた四十年の間、/わたしにいけにえと供え物を/献げたことがあったか。 7:43 お前たちは拝むために造った偶像、/モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を/担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちを/バビロンのかなたへ移住させる。』


 モーセは….いのちのことばを受け、私たちに伝えてくれた方でした。このモーセに対して、われらの父祖たちは素直であろうとはせず、かえって反発して、エジプトに思いをはせるのでした。(本田哲郎訳)
 「親の心、子知らず」父である神は子である人間に絶えず心を傾け、無くてならぬもので養って下さいます。幼い時はその愛を素直に受け入れていたのに、自我が心の主人になってしまうと、目には見えない親の愛を忘れ、うっとうしいと思い、顔を避けて没交渉にさえなります。アダムとイブ、その子カインと続く物語に表れています。
 ステファノはモーセの時代を振り返ります。「神がアブラハムと交わした約束の時が近づくにつれ」と記されています。
 こんな状況があります。「いよいよ完成か」という時に、神の意地悪、神にだまされた、とさえ思うような誘惑や試練がやってくるのです。まっとうな親は子が<試練を乗り越える強さ>を身につけることを願うはずです。<誘惑と挑戦の違いを見極める知恵>も持たせたいでしょう。ところが金に余裕が出来ると親は子どもの要求するまま熟慮なしに与え、増長した子はもっと無理な要求をするようになり、間違いに気づいて対応を変えても、手遅れになることが多いのではないでしょうか。まさにステファノは<神との仲介者モーセ>に逆らう選民の堕落を思い出させました。
 ここで、道は決定的に分かれます。「どうすれば良いのか」真剣に自問し助けを求めるか、差し出された手を拒み、真実と心にふたをして、堕落の道を突き進むかです。
 愛をもって厳しいことを言ってくれる人はめったにいません。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を好んだ。それが、もう裁きになっている」(ヨハネ3:16-21)
 残念なことに100㌫、私たちは闇を愛する性分が捨てられません。自分の決心や力ではどうすることも出来ません。しかし、闇から解放される道が示されています。
 「光を受け入れ、光が来たと信じて」何度も何度もやり直す生き方です。人生の最後まで「未完成ではあるけれど、行くべき方向を目指して」歩く生き方です。
 モーセは民の運命を背負い、生まれてすぐに殺されるところでした。しかし、不思議な導きで王女の養子となり、国王の王子として育てられました。立派なエジプトの後継者となれる矢先に、あの事件を起こし、「人間を恐れて」荒れ野に逃亡したのです。
 40年後、逃亡先の荒れ野で神と出会います。荒れ野は人生の墓場ではありません。裸一貫の身になった時、神の声に出会い、神を信じるチャンスに恵まれる場なのです。