2015.10/11 神に清められた人

◆(エレミヤ1:4-8、使徒言行録10:9-23a)
 さあ、下へおりて、その人たちといっしょに行きなさい。かれらをつかわしたのはわたしだから、少しもためらう必要はない。(本田哲郎訳:使徒言行録10:19)
 想定外のことが起こります。何度誘われても断り続けたのに、出席するはめになり、そこで新しい方向へ導かれ、夜更かし寝坊の私が、早天祈祷を始めたのです。
 個人の習慣はまだしも、宗教性の強い民族、国民のタブー(禁忌)は強固です。ユダヤやイスラムの食べ物に関する掟は代表例です。両方とも旧約聖書の掟から生まれた宗教ですが、独自に規定が発達し、どこに住んでいても厳しく要求されています。
 へブライ語ではカシュルートと言い「正しい、適正な」を意味します。日本でもコシェルとして扱う店が増えているそうです。食材の種類や処理方法が正しいかどうか、資格のある宗教家が認定して市場に出すのです。「けがれた物を食べないように」と。
 日本人は何でも食べるのですが、ケガレ思想は根強くあり、死体をけがれと信じたり死を恐れます。社会的には部落差別、障害差別、女性差別としても表面化します。
 主イエスはパリサイ人に「外から人の中に入る物で人をけがすことが出来るものは何もなく、人の中から出てくるものが人をけがすのである(マルコ7:14-15)」と、彼らが差別した人々と普通に交わることで、彼らの間違った教えや態度を批判されました。
 ペトロはヤッファの「皮なめし職人シモン」の家の客人でした。皮なめしもケガレ職業とみなされていたので、ペトロはある程度はタブーから自由だったようです。けれども、幻を見たとき「それは食べられません。けがれた物は一度も口にしたことはないのです」と天の声をすぐには受け入れられませんでした。そこに伝統的なユダヤ人の価値観が出ています。拒むペトロに「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない」とのお告げが3回もあり、今のは何だったのか考えあぐねてしまいました。
 そこに、コルネリオからの使者が訪ねて来たのです。彼らはイタリア人で、一人は軍服を身に着ていました。割礼を受けない異邦人です。幻の声は命じました。「ためらわず(差別せず)、一緒に行け。私がよこしたのだ」と。新しい一歩の始まりです。
 あの人だけは勘弁だという相性の悪い人がいるかも知れません。しかし、その人も「神が愛して清くされた人」だと思ってみたらどうでしょう。世界が変わるのです。