2014.11/9  献身と聖霊

 「わたしは主に罪を犯しました」。ナタンはダビデに言った。「その主が、あなたの 罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、・・・ (サムエル記下12:13-16)

 ペトロは言った。「アナニヤ、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ聖霊をあざむいて、地所の代金の一部を自分のために残したのか。・・どうして、こんなことをたくらんだのか。あなたは人をあざむいたのではなく、神を欺いたのだ。」 (使徒5:1-11新改訳)

 「あなたは人間をあざむいたのではなく、神を欺いたのだ」 
このように面と向かって言われた人はどんな気持ちでしょう。今日の御言葉はとても恐ろしいものです。

 信仰の群れは「聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語り」「心も思いも一つ、必需品も共有(~4:35)」という素晴らしいものでした。
 しかしその時、密かに危機が迫っていました。ペンテコステ直後は「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パン裂き、祈りに熱心」で「すべての人に畏れが生じた、なぜなら・・・(2:43)」とあります。

 急速に拡大した信者の群れが、大切な基本を見失う淵に立っていました。それは、「主へのおそれ」です。そして「あなたの罪は赦された」という救いの原点です。

 アナニアとサフィラは行動的な信仰者だったに違いありません。仲間内の貧しい人のために衣食住の必要がうなぎのぼりでした。あり余る資産から寄付する人も、普通の人も、貧しい人までが献げることに熱心でした。
 アナニアとサフィラも資産を処分しましたが、そこにわずかな「パン種:世俗的な計算」が混じったのです。代金の一部を持ってきて「これがすべてです」と使徒に差し出したからです。
 単純に「これだけ献金します」なら神は喜んで下さったに違いありません。わざわざ嘘の額を告げる必要などなかったのです。

 私たちの教会では、献金の祈りカードに「今、精一杯の献金を添え、献身の証しとして」と書いてあります。この原文を決めるとき私はとても迷いました。「私を始め、本当に精一杯だろうか、それを会衆に求めて形ばかりにならないか?」畏れをもってこの祈りを用意しました。
 もし、このカードに込められた思いを真剣に受けとめてくれるなら、献金のたびに「精一杯」を自問自答していきたいのです。額はまったく自由です。「真心から」献げられる奉仕と感謝の気持ちを神は求められます。口先で精一杯とは恐ろしくて言えないでしょう。

 ダビデは神の祝福を溢れるばかりに受けた王です。ところが聖書には、思い上がりの罪を何度も重ねたこと、結婚と子育てに失敗したことも正直に書いてあります。

 にもかかわらず理想の王と慕われるのはなぜでしょうか。第1に正直だったこと。過ちも弱さも認め、神を恐れて赦しを求めた人でした。第2に真実な友がいたこと。若い頃から命がけで一緒に戦った仲間がいました。腹心の友が「それは、お前だ」と恐ろしい告発をした時に、友の言葉を神のことばとして恐れ、赦しを受けてやり直せました。

 いつの時代も、誰でも「主へのおそれ」を忘れず「罪の赦し」を信じて生活することが希望のある人生、神への献身です。その献身は聖霊が導いて下さるものです。